私達が一般に「日本刀」と呼んでいる、優美な反りを持った刀が出現したのは、平安時代の中頃の事である。この後、日本刀は鎌倉時代に大いに発達して行く。この頃の戦いは、騎馬戦が主だったので、刀身が80センチを超える長大な日本刀も多く、馬上で抜き易い様に、腰のあたりで刃を下にして日本刀を吊り下げて着用していた。この様な太刀の時代が長く続いたが、「応仁の乱」をきっかけに全国に戦乱が広がり、屋内での暗殺や、市中での闘争が常の事となって来た為、太刀とは別に刀身60センチ前後の短い日本刀を護身用として、刃を上にして左腰の帯に差して携行することが多くなる。襲われた時、素早く抜打ちが出来るように、反りも浅く造る。この様な刀を、打刀と呼ぶ。
居合の基本となる抜打ちの技法が生まれたのは、この時代とされている。
室町時代の末期、いわゆる戦国時代になると、太刀はほとんど廃れてしまい、打刀と脇差の二本を帯刀するのが武士の日常の姿となる。そして、この打刀による抜打ちを武道として完成させたのが、居合の始祖と呼ばれる林崎甚助源重信(幼名、民治丸)である。
1542年(天文11年)に出羽国楯山林崎村(現在の山形県村山市)で生まれた甚助は、父浅野数馬の仇討の為に武術に精進し、厳しい稽古を積む。556年、林崎神社に百余日参籠して、奥義を極めるため祈願した所、満願の日に夢の中で神より、居合の極意を伝授されたと伝えられている。そして、1561年京都で仇討を果たした甚助は、その後も諸国修業の旅を続けて、多くの弟子を育てる。田宮平兵衛業正(田宮流の開祖)、長野無楽入道槿露斎(無楽流の開祖)、片山伯耆守久安(伯耆流の開祖)、関口八郎右衛門氏心(関口新心流の開祖)などがいる。
この時に伝えられた流派は、林崎流、林崎夢想流、重信流、神夢想林崎流などと呼ばれているが、甚助自身がこの流派名を名乗った分けではない。(始めは夢想流と呼ばれたが、秀吉の上覧に供し無双の名を賜わったと称せられる)
又、甚助が神託を得た林崎神社に、仇討の帰途、信国の太刀を奉納したと伝わり、現在では林崎甚助も祀られて林崎居合神社と呼ばれている。
流祖以来、代々その伝統を継ぎ幾多の分流を生み名手を輩出して来たが、第七代宗家の長谷川主税助英信(江戸時代初期、実際の英信については疑問点が多く、史実について未だ確定しがたいとされている)は、その技古今に冠絶し、精妙神技を以って始祖以来の達人と言われ、古伝の技に独創を加え、時代に合わせた改善を行い、故郷の土佐に帰ってこれを伝えた。
この新しい流派を、無双直伝英信流、長谷川英信流と呼ぶ。
第十二代より、無双直伝英信流は二派に分かれ、後年、林益之丞政誠の系統は谷村派、松吉貞助久成の系統は下村派と呼ぶようになる。土佐藩士の間で代々伝えられて来た無双直伝英信流は、明治維新後の廃刀令により衰退の途をたどり始める。この難しい時代に第十七代宗家を継承した大江正路子敬(谷村派、下村派の両派を学び谷村派を継承する)により、それまで口伝でまちまちに伝承されていた技を整理し、現在の無双直伝英信流の形(初伝11本、中伝10本、奥伝21本)にまとめました。
又、流派名も無双直伝英信流と統一し、現在の居合道の基礎を築くとともに、衰退していた居合道を再び隆起させ、当流の中興の祖と呼ばれた。
しかし、維新よりも更に大きな試練が、居合道の世界を襲う。第二次世界大戦の敗戦と、それに伴う日本刀の没収、武道の禁止により、居合道の命脈が絶たれたかに見た。無双直伝英信流の復活を賭けて、第十九代の福井春政は土佐から大阪に第二十代を移すことを決意され、昭和25年4月14日河野稔百錬が第二十代を継承する。河野稔百錬は、人々の期待に応え、昭和29年に全日本居合道連盟の結成に漕ぎつけ、初代の理事長に就任して居合道の発展に尽力する。
数多くの著書も遺され、なかでも「大日本居合道図譜」は、今でも無双直伝英信流のバイブルとして大切に読み継がれている。
- ・大森流
- 11本 (大江は「正座の部」と改称、形の名称も変更)
- ・英信流表
- 10本 (大江は「立膝の部」と改称)
- ・英信流奥
- 20本 (20本より多い系統もある)
- ・太刀打ちの位
- 10本 (剣術の組太刀、大江は7本に改変)
- ・詰合
- 10本 (相手を付けての居合の形)
- ・大小詰
- 8本 (座った状態での帯刀柔術)
- ・大小立詰
- 7本 (立った状態での帯刀柔術)
- ・軍場大剣取
- 10本 (組太刀、幕末に失伝したと思われる)
※現在では、一部の系統を除いて詰合、大小詰、大小立詰は継承されていない事が多い。
又、軍場大剣取は失伝していると言われている。
- 初代
- 林崎甚助源重信(居合の始祖・当流の始祖、自身が開いた流派は林崎流・林崎夢想流・重信流などと呼ばれるが自身が生前に、この流派名を名乗ったわけではない)
- 二代
- 田宮平兵衛業正(田宮流居合の開祖)
- 三代
- 長野無楽入道槿露斎(無楽流居合の開祖)
- 四代
- 百々軍兵衛光重
- 五代
- 蟻川正左衛門宗続
- 六代
- 萬野団右衛門尉信定
- 七代
- 長谷川主税助英信(当流の流祖、古伝の業に独創の業を加え流名を無双直伝英信流と改め、土佐の国にこれが伝承された)
- 八代
- 荒井勢哲清信
- 九代
- 林六太夫守政(大森流を無双直伝英信流に取入れる)
- 十代
- 林安太夫政 ?
- 十一代
- 大黒元衛門清勝
- 十二代
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- 十三代
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- 十四代
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- 十五代
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- 十六代
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- 十七代
- 大江正路子敬(当流中興の祖、流派の名称を統一し業を整理して現代の居合道の基礎を築く)
- 十八代
- 穂岐山波雄
- 十九代
- 福井春政鉄骨
- 二十代
- 河野稔百錬 (土佐以外の士に宗家を相伝される、全日本居合道連盟の初代理事長で数多くの著書を残す)
(日本居合道連盟)
- 二十一代
- 清水俊光
- 二十二代
- 利水幸夫
- 二十三代
- 清水寿浩